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長五郎餅の歴史

豊臣秀吉公と
長五郎餅

長五郎餅の歴史

天正年間と言うから今から400年あまり前の事である。

京都・北野天満宮の縁日になると決まって現れる一人の老人がいた。境内の出店の者に小さな餅(もち)を5、6個売ると去って行く。どこから来てどこへ帰るのか誰も知らない。
薄い餅皮にあんを包んだ上品な餅で、次第に評判になった。ある時、一人が老人に尋ねると「河内屋長五郎」と名乗った。

天正15(1587)年10月、九州平定を終えた豊臣秀吉は北野天満宮の松原で大茶会を催すことになり、市中に高札を掲げて上下の別なく参加を呼びかけた。
長五郎も出店仲間に言われて茶屋を出し、秀吉に餅を献上したところ大層気に入られ、「以後『長五郎餅』と名乗るべし」と命名されたという。

いまも北野下の森に店を構える「長五郎餅本舗」の由来話である。

長五郎が認められた北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)は10月1日開かれ、北野の松原には1500~600の茶屋が並んだ。拝殿内には秀吉が収集した名物茶道具がすらりと披露され中央には秀吉自慢の黄金作りの茶室が飾られた。

拝殿の周りに特設された4つの茶席では、秀吉と千利休、津田宗及、今井宗休の4人が参会者に茶をたてた。

当日遅刻して門前に入れてもらえず、それがもとで病死した人まで出たという。秀吉は上機嫌で、昼からは会場内を見て回ったというから、長五郎の餅が目に止まったのもこの時かもしれない。

昭和11年10月8日から5日間、秀吉の大茶会350周年を記念して「昭和北野大茶湯」が開かれた。当時の京都日出新聞は「豊太閤の雅懐を偲ぶ 京洛に大茶湯」と特集面を組み、初日だけで全国から二千数百人が参加した、と報じられている。

北野天満宮
上中央:地黒蕨蒔画高附(じぐろわらびまきえたかつき)下左右:天目茶碗(てんもくちゃわん)

上中央:地黒蕨蒔画高附(じぐろわらびまきえたかつき)
下左右:天目茶碗(てんもくちゃわん)

豊臣秀吉公像

豊臣秀吉公像